岩見銀山 石見銀山
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岩見銀山
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岩見銀山についての情報
色んな意味でいろいろ
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岩見銀山?
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いわみ銀山は、現在の島根県太田市近辺の地帯で
徳川家康が活躍していた頃の時代に日本で最大の
銀山として隆盛を誇っていた地で、戦後に
日本の史跡として昭和44年(1969年)に
正式に鉱山の遺跡として登録されるに至り、
ついにこのサイトを作成している時点の
2007年にユネスコ世界遺産にまで
登録される事が決定し、現在特に注目が集まっている遺跡です。
いわみ銀山は、その呼び方の為によく「岩見銀山」と間違われますが、
正確には「
石見銀山
」と書いて「いわみぎんざん」と呼びます。
しかし、呼び方が「いわみ」銀山なので石見銀山という書き方を
知らない方も多数いてもおかしくはないと思われます。
現にこれを書いているこの私も、このサイトをご覧に
なられていらっしゃる方も、「岩見銀山」だと思って
いた方も多いのではないかと思います。
普通に「いわみ」銀山と聞けば、ほとんどの方は
岩見銀山だと思ってしまうと思います。
実は私も最初「岩見銀山」だと思っていました。
私がこのサイトを、誤解が起こるかもしれないのを承知で
あえて「岩見銀山」というタイトルを残したままこの
情報サイトを作ったのは、正確には石見銀山と書くという事を
私のように岩見銀山だと思ってらっしゃった方にあえて伝える為に
そう思ってる方に見てもらいたいという思いもあり、
岩見銀山というタイトルを残したままこの情報サイトを
作りました次第です。なので、このサイトを見たのを機に
今後は岩見銀山でなく、正確には石見銀山と書いていわみ銀山と読む、
という事を覚えておけば、それだけでも少しはお役に立てたかもしれません。
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世界遺産登録へ
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日本での世界遺産というのをざっと見てみますと、
姫路城、原爆ドーム、厳島神社、日光の社寺、
京都関係の文化財もろもろ、奈良の文化財もろもろ、
法隆寺関係の建造物もろもろ、琉球王国のグスク関連もろもろ、
白川郷・五箇山の合掌造り集落、紀伊山地の霊場・参詣道、
などなどとなりますが、これらの中に石見銀山が入る事に
なったわけですが、それに恥じない遺跡と言えるでしょう。
世界遺産に登録されるには、いくつかの基準項目があり
それをクリアしないと登録されないのですが、この銀山には
それだけのものがあるという事が価値の証明という事にも
なっていると言えるでしょう。
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この銀山の名物?
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世界遺産レベルのものに限らず、どこの地にもそこの名の付いた名物的な
存在というのが大体存在する事が多いと思われます。
島根県の名物というとやはり一番有名なのは出雲関係のもの
という事になるでしょうか。出雲といえば出雲そばも有名ですが、
この銀山のそばにも石見銀山の老舗そば屋さん
というのがあるそうです。
その他、芸術の方で石見焼というものも存在するそうで、
島根県の物産展などがあるとそれらの名産品は
かなりの確率で展示されているそうです。
このような名物の面でも楽しんでみるのも、遺産自体を楽しむだけでなく
楽しみがふくらむ一面なのかもしれません。
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岩見銀山…ではなく石見銀山のここまで
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この銀山の発祥は、1500年代に神谷寿貞という
博多の商人が本腰を入れて開発したのが実質的に
最初であると言われているそうです。
(他に、もっと前の鎌倉時代の末に銀が発見されたという
一説もあるとの事。)
当時のその地の大内氏や尼子氏、その他の中小領主と
の争奪戦が繰り広げられたが、大内義隆が死亡すると
この近辺の領地争いと同じくほとんど毛利氏と尼子氏の一騎打ち
状態となり、最終的に毛利氏が勝利を収めたのと同じくこの銀山も
毛利氏のものとなったが、その毛利氏もその後豊臣秀吉の軍門に下った
のはご存知の通りでこの銀山も豊臣氏との共同管轄状態に
なったとの事です。そして、秀吉の軍資金としてこの銀山が
充てられる…という経緯で戦国時代までは落ち着いたそうです。
関が原の戦い後は、その歴史通りにこの銀山も徳川氏の
ものとなり、この石見銀山は家康によって幕府の直轄地
として銀山奉行という役人(初代の銀山奉行は大久保長安という人物)
も任命されて開発が進み、莫大な資金源の1つとなったとの事です。
また、これによってこの周辺地も銀山開発の燃料資材補給
に絡んで一緒に発展する事になっていったが、江戸初期には
莫大な産出があったものの次第に産出量が減って行き、
江戸時代末期にはほとんど産出しなくなってしまったとの事です。
明治に入ると、現在のDOWAホールディングス(当時の名称は藤田組)
が再開発を試みたが、さすがに産出減少ですでに苦しかったらしく
大正時代にはまた休山となり、それでも戦争でまたどうしても必要
という事になって昭和16年に銅の産出を試すに至りますが
戦争中に水害によって坑道が使用不能になり、ここでついに
完全閉鎖となってしまったという歴史があるそうです。
現在でもDOWAホールディングスが鉱業権は保持しており、
坑道の残った箇所の一部が一般公開もされているとの事です。
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